伊豆文学散歩
井上靖 詩碑

井上靖 詩碑

井上靖が、自分の「文学の源流」と語った作品。「闘牛」で芥川賞を受賞する前年の作。この詩がモチーフとなって小説「猟銃」が書かれている。詩集「北国」のあとがきで述べられる「詩というより、詩を逃げないように閉じ込めてある小さい箱のような」ものということばに込められている、靖の創作の核となる部分を象徴する作品である。

碑文

なぜかその中年男は村人の顰蹙を買い、彼に集まる不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾の腰帯をしめ、コールテンの上衣の上に猟銃を重くくいこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天城への叢をふっくりと分け登ってゆくのを見たことがあった。 それから二十余年、その人はとうに故人になったが、その時のその人の背後姿は今でも私の瞼から消えない。生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、あのように冷たく武装しなければならなかったものは何であったのか。私はいまでも都会の雑踏の中にある時、ふと、あの猟人のように歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静かに、冷たくーー。そして、人生の白い河床をのぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方に、同時にしみ入るような重量感を捺印するものは、やはりあの磨き光れる一箇の猟銃をおいてはないと思うのだ。

所在地:伊豆市湯ヶ島 滑沢渓谷