
坂口安吾 詩碑
「肝臓先生」のモデルとなった佐藤清一は昭和3年天城診療所開所。山本六丁子の弟子で俳号を十雨。昭和25年、坂口安吾は『文学界』に「肝臓先生」を発表。内容のほとんどが肝臓先生が語ったそのままを小説にしているところからも、仕事だけでなく、俳句をたしなむ肝臓先生にはかなりの思い入れがあったと思われる。昭和50年5月25日肝臓先生友の会建立
碑文
この町に仁術を施す騎士住みたりき 町民のために足の医者たるの小さき生涯を 全うせんとしてシシとして奮励努力し 天城山の炭やく小屋にオーダンをやむ男あれば箸を投げうってゲートルをまき雲をひらいて山林を走る 孤島に血を吐くアマあれば一直線に駈けて小舟にうちのり風よ浪よ舟をはこべ島よ近づけとあせりにあせりぬ 片足折れなば片足にて走らん 両足折れなば手にて走らん 手も足も折れなば首のみにても走らんものを 疲れても走れ 寝ても走れ われは小さき足の医者なり走りに走りて生涯を終らんものをと思ひしに天これを許したまわず 肺を病む人の肝臓をみれば腫れてあるなり 胃腸を病む人の肝臓をみればこれも腫れてあるなり ついに診る人の肝臓の腫れざるはなかりき (中略) 肝臓の肥大をふせげ! 肝臓を治せ! たたかえ! たたかえ! 流行性肝臓炎と! かく叫びて町に村に山に海に注射をうちて走りに走りぬ 人よんで肝臓医者とののしれども後へはひかず (中略) 肝臓の騎士の住みたる町、歩みたる道の尊きかな 道行く人よ耳をすませ いつの世にも肝臓先生の慈愛の言葉はこの道の上に絶ゆることはなかるべし 肝臓を治せ たたかえ! たたかえ! 流行性肝臓炎と! たたかえ! たたかえ! たたかえ! と